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ゴッホの生涯考察(アルルで才能を開花)

ヌエネンを離れたゴッホはベルギーのアントウェルペンに移り住んだ。ヌエネンに残された大量のゴッホの習作は母親によって処分されたという。誠にもったいない話である。アントウェルペンの学校で人物画や石膏の知識を学ぶがゴッホは気に入らなかったようだ。
アントウェルペンの学校が自分の思うような所でなくゴッホはがっかりした。そして何の前触れもなく弟テオの住まうパリへと夜行列車へ乗り込んだ。1886年3月ゴッホ33歳の時であった。

パリ到着をテオに知らせた走り書きの手紙が残されている。『まっすぐ来るつもりはなかったが、考えた結果だ。(中略)僕は正午からルーブルで待っている。だから早く来てほしい。』

第3章 パリで弟テオと同居

花の都パリというように1886年のパリは世界の最先端であった。ルイ・ヴィトンやエルメス、シャネルなどが創始したのも前後してこの時代である。上流階級の間ではフロックコートにシルクハットといったお洒落が流行し、男性はパリジャン、女性はパリジェンヌと呼ばれていた。芸術の分野では「印象派」と呼ばれたモネ・ルノワールらの作品が高騰し、印象派をより深化させようという才能ある若手画家も台頭しはじめていた。さらに1868年日本では文明開化で鎖国が解かれ、浮世絵や扇子といった日本独特の文化がパリで流行していた(日本趣味・ジャポネズリー)。詳しくは「19世紀の絵画の歴史と進化」をご覧ください

ゴッホはパリで3つのものに大きく影響を受けた。これがゴッホのスタイルとなり不朽の名作を生み出していったのである。

@印象派から『色彩』を学ぶ

青い花瓶に入った花
「青い花瓶に入った花」 1886年 パリ

印象主義とは、絵の具はパレットで混ぜると暗く混ざる(例えば赤と青をパレット上で混ぜたとき、暗い紫色となる)が、赤と青の交互に並べ遠くから見ると明るい紫色に見える(この現象を視覚混合という)。それを利用してキャンバスで純色のみを使用し明るい色彩の絵画に仕上げた。モネとルノワールが祖とされ印象主義の一派を『印象派』と呼ぶ。

ゴッホはオランダやベルギー在住時代から印象派は知っていたが目の当たりにするのははじめてだった。印象派のまぶしいばかりの明るい絵を知ることにより、ゴッホは色彩に目覚める。色彩の練習としてかっこうのモチーフになったのが『花』であった。花瓶にいけられた花をゴッホは数多く描いた。美術展でゴッホの花瓶の花の絵を観たらパリ時代といっていいだろう。

前述の「じゃがいもを食べる人々」と比較すると色彩がかなり明るくなっていることがわかる。しかしまだまだ「ただ明るい」だけで「色の持つ意味合い」や「色の相互関係」はもっか研究中であった。

A日本趣味から『速描』を学ぶ

ジャポネズリー:梅の開花(広重を模して)
「ジャポネズリー:梅の開花(広重を模して)」 1887年 パリ

パリで日本趣味(ジャポネズリー)が流行したのは前述のとおりであるが、ゴッホも同様に魅了された。中でも浮世絵に深く感心し、浮世絵を数多く模写した。

さらにゴッホは独学で浮世絵を研究、日本の画家たちは『はっきりとした輪郭線を描き、稲妻のようなすばやさでモチーフを描写する』と結論付けた。

その技法にしたがい、以後のゴッホの絵はじっくりとモチーフを観察し描写するのではなく、自分の気の向くままに感情を乗せて速やかに表現する「速描」の技法を重視した。ゴッホ独特のうねりのような筆触は後のことであるが、「絵画に画家の感情を表現する」画法はまさに画期的であった。

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Bモンティセリから『厚塗り』を学ぶ

自画像
「自画像」 1887年 パリ

ゴッホはパリの画廊で南仏の画家アドルフ・モンティセリ(1824〜86年)の絵画を観て心を奪われた。大胆な筆致(筆さばき)に絵の具の厚塗り技法、まさに自分の思うような表現の絵画がそこにあったのである。

パリを離れてからも、ゴッホは厚塗りした絵画を次々に制作、絵の具が乾くのに1〜2ヶ月要したという。ゴッホは『自分は時々モンティセリの後継者ではないかと思うことがある』と述べている。

【アドルフ・モンティセリ】1824〜1886年
南フランスのマルセイユで生まれる。ロマン主義(中世の文化や異国情緒など浪漫を感じさせる主義)の巨匠ウージェーヌ・ドラクロワを崇敬し多くの影響を受けた。

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ゴッホはパリで約2年間過ごした。最新の知識・知り合った画家など得たものはとても多かったが、ゴッホは徐々にパリの喧騒にストレスを感じていった。アブサン(高濃度のリキュール)や煙草をストレスのはけ口としたため身体がボロボロになり静養が必要と考えていた。静養地を南仏アルルに決め、1888年2月(ゴッホ34歳)に単身アルルへと旅立った。
ゴッホの友人画家については「ゴッホがパリで知り合った画家」をご覧ください。

南仏アルルへ。名画が次々と誕生

	雪のある風景
「雪のある風景」 1888年 アルル

アルルに到着したのは1888年2月、南仏アルルではめずらしく大雪が降っていた。それでもゴッホはここの土地の空気は澄み、水はきれいな斑紋を描き、毎日太陽は黄色く輝き、まるで日本のようだと感じた。そもそもなぜゴッホはアルルを選んだのか。友人ロートレックに薦められた、アルルのイベントがパリで開催し魅了された、など様々な理由があるが、ゴッホはパリ時代日本趣味に傾倒し、日本は太陽輝くまるでヒマワリを想わせる国だと感じ『フランスの日本』である温暖な南仏アルルに決めたのである。ゴッホにとってまさにアルルはユートピアだった。そして若手画家たちのコミュニティとしての計画も立てていた。耳切り事件でアルルを離れたのは至極残念である。

第4章 アルルの『黄色い家』 ゴッホのユートピア

黄色い家
「黄色い家」 1888年9月 アルル
	ゴッホの寝室
「ゴッホの寝室」 1888年10月 アルル
夜のカフェテラス
「夜のカフェテラス」 1888年9月 アルル
パシアンス・エスカリエの肖像
「パシアンス・エスカリエの肖像」 1888年8月 アルル
ウジェーヌ・ボックの肖像
「ウジェーヌ・ボックの肖像」 1888年9月 アルル

1888年2月にアルルに移り、しばらくはレストランの2階で宿を取った(日本に例えると民宿のようなイメージ)。しかしよそ者のゴッホに法外な値段を請求され続け、同年5月に「黄色い家」を借りた(右絵の手前の右翼部分)。アトリエとしては使用したが、寝台や設備が整っていなかったことから実際に住むのは9月になってからである。

北仏にいるゴーギャンは借金に苦しんでいた。ゴッホはゴーギャンにアルルで同居すれば費用がかからないことを提案し、8月ゴーギャンは承諾、用意が出来次第アルルに向かうと約束した。ゴッホはゴーギャンが来るまでに自信作を仕上げておきたいとの気持ちから次々に作品を制作する。著名なものとしては「ひまわり4点」「黄色い家」「夜のカフェ」「夜のカフェテラス」「ゴッホの寝室」など。

色彩の持つ力を研究する

	夜のカフェ
「夜のカフェ」 1888年9月 アルル

左の「夜のカフェ(当時のカフェとは居酒屋のこと)」はテオに『僕は赤と緑でもって人間の恐るべき情念を表現しようと努めた』と述べた。ゴッホは補色(赤と緑、黄と紫のように隣接しあうことで相互に引き立つ色関係)を研究した。毛糸玉を使って補色の毛糸を並べ引き立つことを確認していたという。さらに肖像画では色彩で、その人物そのものを表現しようと努めた。右の「パシアンス・エスカリエの肖像」では彼が農夫の仕事を灼熱の太陽の下で労働していることを表現し背景をオレンジ色に、「ウジェーヌ・ボックの肖像」では彼が詩人の神秘的な雰囲気を表現しようとウルトラマリン色に表現した。ちなみにゴッホは「夜のカフェ」の2階部分で9月まで宿をとった。

ゴーギャンとの共同生活 そして破綻

画家ポール・ゴーギャンとの共同生活は有名である。聞いたことのある人も多いのではないだろうか?ゴーギャンはゴッホの提案(先述参照)に応じて10月23日にアルルに到着した。2人は「黄色い家」で作品を制作したり、アルル周辺に出かけたりしていたが、価値観の不一致で2人の仲は次第に緊張した。12月23日付のテオ宛への手紙には『ゴーギャンはアルルの町に、僕らの仕事場の黄色い家に、とりわけこの僕にいくらか失望しているようだ』と述べた。そして翌24日ゴッホは自分の耳たぶをかみそりで切り失神している所を通報を受けた警察によって発見され病院に収容された。

24日にいったい何が起きたのか?

それはゴッホ自身も覚えておらず何も語ってはいない。ただ当時の病院の入院記録や、ゴーギャンの追憶、文献などからある程度の推察はできる。詳しくは「耳切り事件」の考察をご覧ください。

病院収容後、ゴッホは実質軟禁状態であった。市民が「オランダ人が精神状態が不安定で市民に不安を与えているから見張っていてほしい」と数十名の嘆願書が警察署に送られたのである。さらに「黄色い家」の家主からも立ち退きを求められアルルを去らざるを得なくなった。さらに弟テオは今春に結婚するという。ゴーギャンは去り、アルルからは立ち退きを命じられ、テオの元にも戻れない。ゴッホは孤独感を抱いたままアルル北東のサン=レミの療養院を住み処として選んだ。

ゴッホの生涯の考察

もっとゴッホを知りたい方へ

ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T

ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」

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